ジプシー / 児島未散

「ヘタうま」という言葉がある。上手くはないけど味がある。という説明が一番良いのだろうか。「上手くはない」と言っているあたりに自分の思い入れが感じられる言葉でもある。できれば「ヘタ」とは言いたくない、という自分勝手な思い入れというか・・・。ローリング・ストーンズなどはこの「ヘタうま」の最高峰かもしれない。
児島未散もけっして歌が上手いわけではない。むしろ上手い、ヘタで分けるならヘタなほうなのかもしれない。しかし、雰囲気はじゅうぶんにありヘタというひと言で片づけることはできない。ある時はフランソワーズ・アルディのようでもあり、イ ジヨンのようでもあり、マリアンヌ・フェイスフルのようでもあり、ニコのようでもある。
彼女の歌声にはどの曲も水滴がついているようでドライな感じがしない。だからと言って決して暗いのでもない。彼女の歌の良さは雰囲気もそうだが、歌詞がはっきり耳に入ってくることもあげられる。これはとても大事なことであり難しいことでもある。歌声や歌いかたが耳にいってしまい、歌詞がすんなり入ってこないシンガーが多い中でとても貴重なことだといえる。サウンドの邪魔にもならず、歌詞の邪魔にもならず、しかも存在感を保つ歌いかた。これが児島未散の魅力といえるだろう。
この「ジプシー」というアルバムは1991年にリリースされた彼女にとって2枚目のアルバムだったと思う。と、あやふやなことしか言えないほど彼女のシンガーとしての歴史は短い。おそらくこのアルバムの後にもう一枚リリースして歌手活動はやめていると思う。
アルバムは全10曲でアルバム・タイトル曲の「ジプシー」はシングル・カットされチャートも上位に(10位以内)にランクされていたと思う。その時の1位は小田和正の「ラブ・ストーリーは突然に」だった、という時代背景だ。
「ジプシー」を始め比較的ミディアム・テンポの曲が多く、このテンポでこそ彼女の持ち味は発揮されていたと言えるだろう。
彼女は1967年生まれで俳優、宝田明の娘さんだ。ということは彼女のお母さんは1959年度のミス・ユニバース、児島明子だ。この2人の娘なので身長も168cmとスタイルもよい。容姿端麗ゆえに歌手という職業にもあまり執着心がなかったのかもしれない。しばらく表舞台から姿を消していた後、女優としてテレビで見かけることになる。「透明人間」「金八先生」に出演している。そしてその後はまた姿を消すことになる。少なくても私の知るかぎりでは。
人は偶然にも自分の実力以上の力を発揮してしまうことがある。彼女にとってもこの「ジプシー」は偶然の産物であり、明らかに自分の標準以上の出来になってしまったのだと思う。この偶然の産物がその後の彼女の生き方にどういう影響を与えたのか、今となってはその答えを自信を持って答えることはできない。ただ、このアルバムが「歌手」児島未散の存在を確実に残した名作であることは自信を持って言える。
このアルバムを入手することはかなり困難だろう。中古CDショップ、フリーマーケットで格安値段で売りに出ているのを見つけたなら、迷わずゲットすることをお薦めする。
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アイアン・ジャイアント / ネタばれ度:★★☆

男のガキ心というのは永遠なのだろうか。この手の映画には、いい歳して泣けてしまう。女の人も泣いてしまうのだろうが涙の種類が違うかもしれない。別に任侠の世界とも違って男だけの世界なんて大袈裟なものではないのだが、何なんだろう。
アイアン・ジャイアントはアニメだ。しかもストーリーは単純明快でラストまで簡単に予想できる。絵もあっさりしていて簡単。なのに泣けてしまうのがアイアン・ジャイアント。
話は1957年のアメリカ、メイン州の港町ロックウェルでの話。嵐の夜に難破した船の乗組員が灯台の光と思って見たのが謎の物体。その物体に興味を持った9才の少年ホガースはある夜、家を抜け出して深い森の中を探検しに出かける。そしてそこで見たものはとてつもなく大きな鉄の塊・・・ロボットだった。ロボットは、どこか人間らしい部分を持っていて鉄を食べないと生きていけないらしい。その夜も鉄を求めて彷徨っていたが発電所の高架線に引っかかってしまい、あわや感電寸前のところをホガース少年に助けられる。
以来、ホガース少年とロボットとの交流が始まる。ホガースは、ロボットに言葉を教えようと試みる。意外なことにロボットは言葉を理解しようとする気配がある。ホガースは、ロボットに良い人(ヒーロー)と悪い人の違いを教える。結果、ロボットはスーパーマンを好むようになる。
町外れに住むスクラップ屋の理解者ディーンを得るがロボットの存在は秘密だ。しかし、不思議な事件が相次ぐこの町に政府調査員が現れ、いよいよロボットの存在を隠し切れなくなってしまう。
心優しいロボットだが、ひょんなことからこのロボットの意外な一面が分かってしまう。ロボットにオモチャの銃を向けたとたんにロボットの表情が一変する。このロボットを危険と見た調査員は政府に軍隊の出動を依頼し、ロボットを破壊しようとする。ホガースは誤解を解くべく必死に軍隊長を説得するがその甲斐虚しくミサイル発射のスイッチは押されてしまう。ミサイルは空高く発射され、ロボットのいるロックウェルの町に向かってくる。ホガースと見つめ合ったロボットは、ホガースに「あること」を語りかけてスーパーマンのポーズで空高くと飛んでいく・・・。
1957年は米ソ冷戦の真っ最中で人類初の人工衛星スプートニクが打ち上げられた年だ。宇宙や科学に対して大きな夢を持つことが出来始めた時代だ。宇宙元年から何年も経った今の時代、コンピュータの普及で社会はあまりにも便利になりすぎた。便利になりすぎて人間個々の人格も不確かなものになったのだろうか。
この映画の中で出たこんなセリフが印象的だった。「君が何になるのか、選ぶのは君自身だ」。
ロボット、アイアン・ジャイアントは、鉄人なのに目が言葉以上に語りかけてくる。ラスト・シーンがどうなるか、分かっているのに泣けてしまうこの映画、最後の最後にもうひとつのオチがある。そのヒントも映画の途中でちゃんと出てくるので見終わった後に思い出して楽しむことができる。
最初に書いた、男としての涙は悲しいだけでなくノスタルジーということなのかもしれない。ビデオで見る場合は、日本語吹き替えのほうをお薦めする。
1999年作品。87分。監督:ブラッド・バード(テレビ畑の人らしい)。
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JSA / ネタばれ度:★★★

『JSA(共同警備区域JOINT SECURITY AREA)』は韓国では2000年9月に公開された。ということはその年の6月に実現した南北首脳会議の後のことで「統一」というキーワードのもと韓国の北朝鮮に対する印象が大きく変わりつつある状況での公開であった、と言うことだ。
実際、『シュリ』に登場する北朝鮮人民は特殊工作員ということもあって残酷、過激というイメージで描かれていた。しかし、『JSA』での北朝鮮軍兵士2名は心に血の通った人間らしい愛情と苦悩を持ち備えた人物として描かれている。このあたりも南北統一ムードのさなかでの公開、ヒットに大きな影響を与えたのかもしれない。
『JSA』は大まかに3部に分かれている。それぞれに「AREA」「SECURITY」「JOINT」と名前が付けられている。実際の「JOINT SECURITY AREA」とは逆の順番でだ。
「AREA」
深夜の板門店、共同警備区域北朝鮮側歩哨所から数発もの銃声が闇夜にとどろく。この銃声はすぐに両国国境軍の銃撃戦へと発展し38度線は一気に緊張する。
ことの真相の調査は両国合意のもとスイスとスウェーデンからなる中立国監督委員会に委ねられた。この調査の任を受けたのが韓国籍の父を持つスイス軍女性将校ソフィー・チャン少佐(イ・ヨンエ)だった。ソフィー少佐は韓国軍のイ・スヒョク兵長(イ・ビョンホン)と北朝鮮軍のオ・ギョンピル士官(ソン・ガンホ)らと会い陳述書を元に取調べを開始するが、双方の言い分は全く違ったものでどちらの陳述書にも疑問を持つことになる。
「SECURITY」
事件勃発の8ヶ月前、とある出来事がきっかけで韓国軍イ・スヒョク兵長と北朝鮮軍オ・ギョンピル士官、チョン・ウジン兵士(シン・ハギュン)との間に禁断の交流が生まれる。この交流にはナム・ソンシク一等兵(キム・テウ)も加わることになる。
4人の交流は危険であるがまさに禁断の果実のごとく悪魔的な魅力のあるものであった。いつかはやめなくてはならないと思いつつ続いた交流もイ・スヒョク兵長の除隊をきっかけに終止符をうつことになる。最後の夜はチョン・ウジン兵士の誕生日の日だった。そして事件勃発の日でもあった。
「JOINT」
明らかに何かが隠蔽されていることを確信したソフィー少佐の尋問はついにナム・ソンシク一等兵にも及んだ。だんだん事件の本質に近づきつつあるソフィー少佐だったが彼女の父も北朝鮮籍であった事実を知ることになる。更に、取調べ中に参考人の自殺未遂事件も起こり、志半ばにして任を解かれることになってしまう。
以上がストーリのあらましだ。事件の真相は映画のわりと早い段階で想像できてしまうが、見ている側のテンションを落とすことなく結論へと進んでいく。
韓国映画は見る側にとって大きなハンデというか問題点を持っている。まずは、スヒョク、ギョンピル、ウジン、ソンシクなどの名前だ。これがなかなか馴染みにくい。私など比較的慣れてきた方だが、たまに「今、誰の話?」などとブレーキがかかることがある。
それと呼称の問題。今回は出てこなかったかもしれないが、韓国の女性は血がつながっていない人に対しても目上の男性には「オッパ(訳は兄)」と呼ぶ。これなどは字幕泣かせだし慣れないと「そうか彼はお兄さんだったんだ」などと間違うことにもなる。『JSA』では「トンム(訳は仲間、同志かな)」という呼び方が禁断の交流の中で「ヒョン(訳は兄貴かな)」に変わっていく、あるいは「ヒョンと呼んでいいか?」などの会話にストーリーのひだを感じることができるのだろうが、それらの感覚がスムーズに見ている側に入り込んでこないあたりに韓国映画の難しさを感じてしまう。
もうひとつこの映画で残念なことは時間軸が前後して映像が組み立てられているので、一瞬いつの話なのか理解するのが難しいことだ。これは例えば、11月4日(事件発生1週間後)とか2月17日(事件発生8ヶ月前)などと事件発生を基点にして注釈を入れてくれたらもっと理解しやすかったかもしれない。
映画のラスト・シーンは静止画像で終わるが、これは映画の途中で何気なくカメラが拾ったカットの静止画像だ。韓国側から板門店を訪れた欧米観光団の女性の帽子が風で飛んでしまい北朝鮮側に入ってしまう。一瞬、ギョッとなるがオ・ギョンピル北朝鮮軍士官が埃をとりながら帽子を手渡す。その後にはチョン・ウジン兵士が行進をしながら見ている。韓国側では直立不動で任務推敲中ナム・ソンシク一等兵。写真を撮るのを静止しようとするイ スヒョク兵長。この画像に映っている北朝鮮軍兵士2名と韓国軍兵士2名の表情は素晴らしく、映画史上に残るラスト・シーンになるだろう。
もし、2度見る機会があれば最後の静止画像として使われる映像を動いている映像として映画の中で再確認してみたい。
北朝鮮兵士を演じたシン・ハギュン。この人は韓国のミュージシャン、POSITIONのヒット曲「I LOVE YOU」(尾崎豊のカバー)のミュージック・ビデオにも出演しているのが、顔の表情が素晴らしい役者だ。今後の韓国エンタ界を背負っていく人になるだろう。韓国軍兵士役のキム・テウの「なぜ?」というような困惑の表情も素晴らしかったし、自分の彼女の写真と言って韓国女優コ・ソヨンの写真を見せたのには笑った。ソン・ガンホは北朝鮮軍の職業軍人としての逞しさと人間としての懐の深さを表現してくれた。国境越しにナム・ソンシク一等兵を自国側に抱き寄せたシーンは素敵だった。
一方、思いがけず映画冒頭で最初にクレジットされたイ・ヨンエ。事実上の主役であるイ・ビョンホン。この2人の演技には賞賛するところはなかった。特にイ・ヨンエにいたっては登場の意味さえもあまりないような役どころだった。
ところで、イ・ヨンエのソフィー少佐は映画用の登場人物なのだが、なぜ任を解かれたのが今イチ分からなかった。最初から事件の究明を快く思わない人たちのセレモニー調査でしかなかったため打ち切るための理由が必要だったのだろうか。参考人の自殺未遂、父親が北朝鮮籍だということの発覚が原因なのだろうか。着任してから調べてすぐ分かるような身元調査なら派遣される前にじゅうぶん分かりそうなものである。
韓国には「シージャギ パニダ」という諺があるらしく「始めれば半分成し遂げたも同じ」という意味らしい。そして「ケンチャナヨ精神」というのがある。これは「No Problem」「大丈夫」なんて意味だろう。この2つが韓国映画の最大の欠点と言えるようだ。勢いはあるけど最後までテンションを保てない。だから「点」としては面白い部分はたくさんあるが、「線」や「面」として見ると不完全燃焼な部分が出てきてしまう。いわゆる「雑」なのである。だからなのか中途半端に面白い映画は多い。なかなか厄介である。
110分。監督:パク・チャヌク。
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ラスト・シーンの静止画はCG合成で作ったとの話あり。とすれば、動いている映像ではその静止画と同じシーンを発見することはできないようだ。(2001.5.23追記)
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