田原成貴調教師逮捕
田原成貴は1959年生まれ。関西所属の騎手だった。98年に騎手を引退して調教師となり99年に開業した。
騎手時代の成績は華やかなものだった。競馬場がまだ鉄火場としてのイメージが強かった78年に騎手デビューした田原は元祖ビジュアル系の騎手でもあった。実際「栗東(関西)の玉三郎」などと呼ばれていた時期もある。
引退をするまでのGI勝利15回は名騎手としてじゅうぶん評価されて良いものだと思う。86年に落馬事故にあい、腎臓摘出手術を克服し見事にカンバック。その後の活躍は素晴らしかった。トウカイテイオーでの有馬記念勝利。引退前年の97年、マヤノトップガンでの4冠達成は充実の極みでもあった。だから、引退を発表した時は周囲から「早すぎる」という言葉で引退を惜しまれた。
名騎手、名調教師にあらず。と、よく言われるように田原の調教師としての成績は今ひとつだった。しかし、田原の調教師としての評価はまだまだこれからだったと思う。
騎手時代から田原の行動は保守的な競馬サークルにおいては目立つことが多かった。誰かれはばからずに正直にものを言うことを疎ましく思う人も多かったようだ。
実際、その発言や行動は大きな波紋を与え、スポーツ紙上を賑わせたこともある。
その例をいくつか挙げてみる。
82年、スプリングステークスで圧倒的1番人気のサルノキングに騎乗。レース前半を最後方で進み、向正面から暴走気味に先行集団にとりついたが直線では失速して4着に敗退。そのレースぶりは常識外れと言われレース後場内は騒然となったばかりか各新聞でもバッシングされた。実際、サルノキングは右前脚を骨折していた。この件に関しての田原のコメントは「この馬にとって最も適したレースをして負けただけ。責められる理由はまったくない」だった。
92年エリザベス女王杯直前のインタビューで騎乗するサンエイサンキューの状態に関して「非常に悪い状態。これで勝てたら騎手をやめてもいい」と発言し、オーナーや調教師の怒りをかうもサンエイサンキューに騎乗。レースは5着に敗れた。レース後も前の発言について質問され「真実をファンに伝えるのも騎手の役目」と話す。
98年スポーツ紙の記事に抗議のため記事を書いた記者を検量室に呼び出した。その際、ステッキが記者にあたり前歯を折る重傷を与えてしまった。「偶然に当たってしまった」と言明。
調教師になっても2000年に皐月賞最有力候補のフサイチゼノンが脚部不安で出走を回避。出走回避をオーナーは翌日のスポーツ紙で知る。オーナーに相談せずに出走回避を決めたことにオーナーは激怒、フサイチゼノンは他厩舎に転厩舎した。
今年になっても調教中に馬の耳に発信機を装着して馬の管理していたことが発覚。無許可での行為に競馬会から過怠金を課せられ罰せられた。
このように考えようによっては正論も多いのだが、そのストレートさには敵も多かったようだ。
更に、現役時代から表には出てこなかったようだが、黒い世界との関わりも噂されたりもしていたが、それが事実なのかやっかみからなのかは分からない。
最近の言動や行動が尋常ではなかった。と事件後、関係者からの話としてスポーツ紙にも出ていた。
田原の最近の精神状態など知る由もない。しかし、ニューヨーク・テロ事件以来、飛行機への搭乗は以前よりも警備が厳しくなっていることは容易に考えられるこの時期。刃渡り19センチのナイフを機内に持ち込もうとする行為はどう考えても尋常ではない。彼の身に何かが起きていたのかもしれない。
今度の事件で田原は調教師の資格を剥奪されるだろう。そして競馬会を永久に追放されるだろう。
スポーツの世界ではよく「記録よりも記憶に残る」と言い方をするが田原成貴はまさに正でも負でも競馬史上記憶に残る男になった。
さらば!田原成貴!
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KOYOTE3 / KOYOTE

HIP HOP、R&B、DANCEが中心に様変わりした20世紀終わりから21世紀にかけての韓国音楽シーン。猫も杓子もRAPを取り入れ、雨後の竹の子のように次から次へと新人が誕生しては消えていくという現象が続いているようだ。
そんな中で3rd.アルバムのリリースまでこぎつけたこのKOYOTE(コヨーテ)は韓国音楽シーンの代表になったと言えるのかもしれない。
そんな彼らの3rd.アルバム「3集」(韓国では特にアルバム名がついていないことのほうが多い)は間違いなく彼らの代表アルバムになるといえるだろう。
KOYOTEの音楽的特長は何といっても女性ボーカル、シンジの声だろう。甲高い声だが意外にうるさくない。そして歌声はパワフルでもあり繊細でもある。その声は哀愁すら帯びているのでリズムのあるダンス・ナンバーもどこか哀しげである。ビートものを歌っても哀愁がある。これはボーカリストとしてはかなり恵まれた才能で、そうそう誰でも持ち合わせているものではない。
一番分かりやすいところでいえばロッド・スチュワートなどはその代表的な例かもしれない。
このアルバムからのシングル・ヒット(といっても韓国にシングルの概念はないのだが)は「PASSION」と「波瀾」。この2曲のクオリティーは曲調、アレンジともかなり優れものだ。ただ残念ながら2曲収められているバラードはどう贔屓目にみてもいただけない。KOYOTEの真髄はダンス・ナンバーにあるということなのだろう。
この3集への参加メンバーは、先のボーカルのシンジ、ラッパーのキム・グー、それに3集から参加したキム・ジョンミンの3人。もともとのメンバーはシンジ、キム・グーに加えてチャ・スンミンだったがスンミン脱退後、キム ジョンミンが加わった。
しかし、このキム・ジョンミンの参加はKOYOTEの活動にとってマイナスはあったもののプラスになることは全くなかった言えるだろう。
このキム・ジョンミン、もともとはFRIENDSというダンス・チームにいたらしいが、KOYOTEでの「決められた型」でのダンスというものを全く理解していない。更につらいのがルックス。加えてステージでのパフォーマンスが演歌歌手のようでありスピード感が全くない。いったい何が良くて加入させたのかも分からない。
と思っていたら、キム・ジョンミンがグループを脱退した(辞めさせられた?)というニュースがあり、今後のKOYOTEの存在すら危ぶまれる話まで一時的に出た。シンジとキム・グーの2人で存続、あるいはシンジがソロに転向するという話まで出ていたようだ。結局のところ2人で次回作4集の制作を終えたということで今後は2人組になるとばかり思っていた。
ところが今度はキム・ジョンミンが復帰するということになったようだ。レコーディングに参加していないであろう彼がどのような形で新作の活動に入るのか、いろいろな意味で楽しみである。
これに加えて韓国ポップス・シーンの面白いエピソードが入ってきた。女の子3人組のグループが実はレコーディングで歌っておらずレコード・デビューを果たしたというのだ。
韓国で問題視して話題になっていたようだが、この下地は韓国の音楽シーンには当たり前のようにあったと思われる。韓国での音楽活動、とりわけ人前までのパフォーマンスは90%以上がリップ・シンク(クチパク)だ。やろうと思えば生で歌う状況を避けようと思えば簡単に避けられる。だからスタジオ・ミュージシャンに歌わせてデビューし、クチパクで活動を続けることもさほど難しいことではないだろう。KOYOTEの次回作4集におけるキム・ジョンミンも先の女の子3人組と大きく違わないということだ。
このように何かとメンバー構成が落ち着かないKOYOTEだが、今回取り上げた3集は全てを割り引いてもクオリティーの高いアルバムであることは確かな事実だ。
クチパク全盛の中、一度だけテレビのライブで生歌で歌っているKOYOTEを見たことがある。本当の意味でのライブに慣れていないせいか、顔に余裕もなく危なっかしいライブだったが、KOYOTEの存在感はじゅうぶんに発揮していた。
今後このグループがどのような道を歩むのか全く予想もできないが、3集という素晴らしいアルバムを残したことだけは韓国音楽シーンの歴史に残るだろう。
そして韓国音楽に興味を持ったことで、素晴らしいアルバムに出会えたことは私めの音楽ライフにとっても大変ラッキーだったと言える。
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